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  • 2016.01.24 Sunday

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    神座分水工の記念碑

    • 2016.01.05 Tuesday
    • 18:33
    神座分水工の敷地内に建てられている大井川用水記念碑です。刻まれた大井川用水記念碑の文字の下には、 農林大臣 西村直己と刻まれています。裏面を見ると、着工:昭和23年12月、 竣工:昭和43年9月、総事業費:545,500万円と刻まれています。かなり長い年月と、巨額の事業費を費やして完成した神座の分水工です。 目立たないところにある施設なのですが、重要な役割をしている建造物です。大井川用水の恩恵を受けている地域の人達は、一度この記念碑と分水工見学をお勧めします。

    科学の礎石

    • 2015.12.23 Wednesday
    • 16:23
    JUGEMテーマ:ぶらり旅
    この礎石は、太平洋戦争末期戦局打開のため(昭和19年)、後に「湯川秀樹博士朝永振一郎博士」ら日本有数の科学者が係わった 「旧日本軍第二海軍技術廠牛尾実験所」の一部です。 成果は「最新兵器」までには至らなかったが、そのマグネトロン技術は、 高周波ミシン又電子レンジなどに応用され、豊かな生活と日本再建の礎になったものと思います。 平成27年1月、大井川『平成の大改修』工事に伴い撤去されたため、 「国土交通省静岡河川事務所」のご理解のもと、 歴史の証人「科学の礎石」として「最寄りの五和駅」に展示するものです。 ここに関係者の功績と歴史的事実に、深く敬意をはらうと共に 「大井川鐵道のご協力」により展示できました事、謹んで感謝の意を表します。 左:湯川石(昭和24年受賞)、右:朝永石(昭和40年受賞)と称する。
    (駅の案内看板より)​

    これが「科学の礎石」の写真です。ちょっとしたスペースなんですが、五和駅に歴史の重さを知るきっかけがある事(2名の日本人のノーベル賞受賞者が戦争に使う電波兵器の開発に係わる)、そして地域住民の協力により行われている点が素晴らしいと思います。これも以前に私がコンテンツとして書いた「駅起こし」の一つの形だと思います。

    招魂碑(大和田八幡神社)

    • 2015.12.15 Tuesday
    • 07:20
    JUGEMテーマ:ぶらり旅
    石碑 目次へ
    大井川鐵道本線・大和田駅から歩いて10分位の所に大和田八幡神社はあり、その境内の向かって左側に、この招魂碑はあります。 昭和44年9月に立てられたもので、20歳代で戦死した、6名の若き兵士の名前が刻んであります。 招集された年や派遣された場所、戦死した所などが詳しく刻み込まれたこの碑。 この碑に刻み切れなかった戦いの辛さや自分との闘いも、数々あったと思います。 改めて、戦争の醜さを思い起こさせます。 愚かな戦争、もう二度と起こらないように、平和な日本であり続ける様に、祈りをささげてこの場所を後にしました。

    大いなる川よみがえりたり(大井川親水公園)

    • 2015.11.15 Sunday
    • 06:02
    JUGEMテーマ:ぶらり旅
    石碑 目次へ​
    大井川の河水は水力発電と農業用水という異なる用途に連携利用されました。しかし、この事により、大井川は致命的な環境への影響、そして流水の枯渇を生じてしまいました。 大井川の水は、その大部分が山中を通じるトンネルの中を流れる事となり、流れるべき河川に流入する事はほとんどありませんでした。 塩郷ダムの完成により、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と謳われ、 平均水深約76cmという記録が残っていた大井川は、塩郷ダムから下流のおよそ20km区間に亘り無水区間となってしまったのです。 塩郷ダム付近は、大蛇行区間(鵜山の七曲がり)であり、水量が豊富な時期は豪快な流れで、大井川の雄大さを感じさせるものでした。 しかし、河川の水が途絶えた事で、砂漠化を起こしました。 そして自然環境の破壊は、アユなどの水産資源に壊滅的打撃を与える事となったのです。 海へ流れ込む砂が大井川の水が途絶えた事により、河口部の砂浜が後退して駿河湾の海岸侵食へと繋がっていく大井川流域全体の大きな問題へと発展していきました。 地域住民たちは、ダムから取り入れている水を、大井川へ戻すように河川管理者である静岡県やダム・発電所を管理する中部電力へ訴えました。 静岡県は川根町・本川根町・中川根町3町の首長・町議会・住民より要請を受けて、1975年(昭和50年)に期限更新となる中部電力の大井川発電用水利権の一部返還(毎秒2トンの放流)を求めて中部電力と交渉を行いましたが、中部電力は大井川の水の返還には応じませんでした。 水利権更新年である1989年(平成元年)が近づくにつれて、 流域の川根町・本川根町・中川根町では水利権の一部返還に向けた活発な動きが表面化していきました。 1986年(昭和61年)、流域の3町は「川根地域振興協議会」を結成し水利権返還についての具体的対策について討議を行い、 塩郷ダムから毎秒5トンの放流を要求しました。 水利権更新年の1989年に入ると、住民の動きは一層活発化していきます。 2月には大井川河川敷広場において住民ら1,000人が集まり、「放流量5トン・水利権更新期間10年に短縮」を求め決起大会が行われました。 斉藤知事は水利権更新交渉に積極的に介入し、この結果中部電力は大井川の水利権一部返還の意思を表明することとなったのです。 具体的には通年で毎秒3トン、農繁期(4月~9月)で毎秒5トンを放流し流域の求める水量の放流を受け入れました。 ただし、水利権更新期間については10年更新の要求に対し30年更新を要望、静岡県や流域自治体もこれに同意しました。 毎秒5トンの塩郷ダムからの放流が農繁期ではあるが実現し、28年目にして大井川に流れがよみがえりました。 流水復活に尽力した斉藤知事はこの時の心境を「桜花 五トンの流れ 照り映えて 大いなる川 よみがえりたり」という短歌に託しました。 この短歌石碑として建立され、現在静岡県道77号川根寸又峡線沿いにある大井川親水公園内に建てられています。 これが、短歌の石碑です。「大井川水返せ運動」、この石碑に秘められた思いが伝わってきます。

    大井川の無水区間は解消し、流水は不完全な形ではありますが、復活する事が出来ました。しかし、「川原砂漠」が完全に解消されたわけではなく、かつての大井川の復活にはまだ道半ばなのです住民にとって破壊された環境を回復することがいかに重要であるか、そして同時にそれをどう回復していくのかが、重要な問題・課題です。 その問題・課題に対する答が、次回の水利権更新で示される事になると思います。

    川根開拓団 拓魂

    • 2015.11.11 Wednesday
    • 07:02
    JUGEMテーマ:ぶらり旅
    石碑 目次へ​
    拓魂碑は、大井川鐡道本線の下泉駅から徒歩で15分位の上長尾地区にあります。 場所的には、362号線を北上し、およそ1km程歩くと左側に、中川根中学校が見えてきます。 川沿いに道路があるので、そこを200m位入った左側にあります。近くには川根本町役場や三ツ星オートキャンプ場があります。 満蒙開拓移民(まんもうかいたくいみん)として、満州に移民した川根本町の方々の拓魂碑です。同じ敷地内には忠魂碑も立てられています。 大陸政策の要として、昭和恐慌下の農村更生策の一つとして遂行されたもので、14年間でおよそ27万人が移住したとのことです。

    碑文
    川根開拓団は郷土の経済復興と国策に応じて一九四二年(昭和十七年)四月以降 板谷壮吉団長外 一四五戸六九三名が 中国東北旧満州竜江省鎮東県套保村周家地区一万三千ヘクタールの広野に移民 分村川根郷として五族協和の理想の下に食糧増産に挺身した また満蒙開拓青少年義勇隊へも当村からの応募者は二九名に達し 将来は分村に受入れを期していた 一九四五年八月太平洋戦争の終結に臨み団は現地を去り 新京の地に於て一年有余飢寒の苦難に堪え 翌年九月雄心空しく故山に還った その間の殉難者並びに関係物故者一八一名の鎮魂と この事実に基き日中両国の永久平和を祈念して この碑を建てる
    ​一九七五年秋分の日  拓魂碑建立委員会


    詳しい事は以下のサイトが参考になります。
    満蒙開拓移民(まんもうかいたくいみん)
    満蒙開拓団 殉難者拓魂 東海

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