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  • 2016.01.24 Sunday

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    大根そば

    • 2016.01.20 Wednesday
    • 08:59
    山間の細い道を行くと、急な斜面に張り付くように何軒かの 家が建っています。 一人の坊さんが村への道を急いでいました。 一軒の戸を叩き、「今晩、軒先を貸してほしい」とお願いすると、 爺さんと婆さんの二人暮らしで「何もないが外は冷えるから」と 囲炉裏のある台所へ上げてくれました。 婆さんは坊さんのために「何も無いが、 このでも食べておくれ」と勧めました。 決して楽な暮らしではなさそうなのに、見ず知らずの旅人に・・・ と坊さんは涙を流しました。 粥の中には米粒はなく、にちいとばかりの野菜だけ、 村人は毎日こんな粗末な食事をしていたのです。
    爺さんの話では「いつの頃からこの土地に住み着いたかわからんが、 見ての通り貧乏暮らし。猫の額ほどの畑に粟、稗、蕎麦を作って、 普段はこんな粥を食べている。米飯なんか 正月くらいしか見たことないなぁ。」
    婆さんも「死ぬまでに一辺、白いまんまを腹一杯食べてみたいもんだぁ。」
    そう言うと二人は顔を見合わせて声を立てて笑いました。
    帰りぎわ、坊さんは袋の中から小さな種を一つかみ出して 「これを畑に蒔いてみてください。」と渡しました。 その種を蒔き丹精込めて面倒見ると、葉っぱは大きく、 その下には太い白い根がある、今まで見た事もない野菜が出来ました。
    「婆さん、こりゃあ何と言うもんずらぁ。」
    「どうして食べたら良いかもわからんなぁ。」
    「粥にでもいれて食べてみっかい。」
    その晩、この野菜で雑炊を作ったところ、
    「お爺さん、これ美味いよ!」
    「おお、こりゃ美味い。村の衆にも分けてやらっかい。」 二人は手分けして村の人たちに、その野菜を分けて歩いたのでした。
    「婆さん、今夜は蕎麦にして、その中に入れてみるかい。」 蕎麦に野菜を千切りにして入れてみました。 「こりゃあ美味い、美味い。」 二人は大喜び。いつしかこの村では、物時にあの野菜を使って 作る蕎麦を食べる習慣が生まれたのです。
    何年か過ぎて、再び坊さんがこの村を訪ねました。 「わぁ〜あの時の坊様だぁ。」 二人は村中に「あの白根の種をくれた坊様が来た、皆家にきてみてくりょう。」 と言って廻りました。
    さあ、村中は大騒ぎ、 「坊様、坊様からいただいた種を蒔いたら、美味しい野菜がとれました。 今では村の皆がその野菜を作って助かっています、ありがとうございました。 今夜はそのお礼に婆さんが蕎麦を打つから食べてください。」 さあ、それから婆さんは大忙し。 蕎麦を挽き、熨して(のして)、茹で上げる。 一方ではあの野菜を使って蕎麦の汁を作る。 ようやく蕎麦が出来上がりました。
    「坊様、この蕎麦の中にはあの野菜がたくさん入っています。 この村自慢の蕎麦です。食べてみてください。」
    坊さんが一口食べて
    「ああ、これは美味しい」というと、 わーっと喜びの声が上がりました。
    「ところで坊様、この野菜は何というのかね。」
    「これは申し訳ない、名前を教えてなかったな。昔、西洋から中国の 中に交じっていた雑草でな、それが中国で育てられて「オオネ」と言うそうだ。それを漢字に 当てはめて「大根」、ダイコンになったそうだ。 坊様は、今食べた蕎麦が大変美味しかったので、 村の人々に「この蕎麦を「大根そば」という名前にしたらどうだ。」と言いました。
    「大根そば、おおい皆、坊様がわしらの蕎麦に名前をつけてくださった。 大根そばだってさぁ。」大根そばの誕生を喜びました。
    次の朝、爺さんと婆さんはすっかり寝坊してしまいました。 坊さんがいつ出て行ったのかも知りませんでした。 風の便りに「聖天様の化身が旅僧になって貧しい村々に大根を広めて歩いている。」 という噂が聞こえてきました。
    遠い昔、貧しい暮らしの中で生まれた「大根そば」のお話です。 豊かな時代になるといつしか忘れられ、家庭で作られることもなくなりましたが、 子供の頃に食べたあの味が忘れられない・・・。大勢の人々によって、 「大根そば」はこの地で再び甦りました。
    ダムジン 第9号 原文のまま


    いわゆる「かさまし料理」である「大根そば」を民話に仕立てた話だと思います。旅の僧が、聖天様の化身と言う件は、歓喜天(聖天様)の供物が、酒と大根である事から、結びつけたのだと思われます。因みに、民話の中には、お酒の件は出てきません。大根そばは、川根に伝わる郷土料理です。各家庭で具材や味付けが違うようで、その家々の味があるようです。写真で紹介するのは三ツ星村の大根そばです。具材は、大根は勿論、鶏肉、油揚げ、椎茸、ニンジンなどが入っていて具だくさん。ネギ、けずり節、刻みのりもトッピングされています。栃木県佐野市にも「大根そば」という郷土料理がありますが、川根地方の大根そばとは、全く違ったお料理です。

    たぬき和尚についての考察

    • 2016.01.10 Sunday
    • 16:52
    はじめに
    民話・伝説では、架空のものを含め、様々な動物が登場する話が多くある。 その中でも、狸が主人公の民話・伝説は、と同様に数多く存在する。 全国的に有名な民話は、証城寺の狸囃子分福茶釜が知られている。
    真実として捉える民話
    民話・伝承の類には、後の世に伝えたい恐ろしい真実が隠されている事が多い。 川根本町に「たぬき和尚」という民話が伝わっているが、その例外ではない。 今回私は、幾つかの民話を比較して、川根本町に伝わる「たぬき和尚」について、若干の私見を得たので報告する。
    民話「たぬき和尚」の概要
    神奈川県の鎌倉に臨済宗建長寺派の大本山である建長寺という有名な寺院の旅の僧侶に扮した狸が人を化かすというもので、 地域により物語の展開が変わってくる。
    共通事項
    建長寺からの御使僧が主人公になっている事が第一に挙げられる。資料3では、建長寺の名前が出てこないが、 これは日本全国を対象としたメディアで放映のため、寺院を特定しない配慮がなされている可能性がある。次に、名主の家に泊まるが、 食事・入浴等の時でも、絶対に姿を表さない。以上の2点が挙げられる。
    建長寺からの使者として描かれている理由
    伝承された時代が解からないので、その背景は定かではないが、​宗派間や寺社との軋轢が考えられる。
    旅先での様子について
    川根本町に伝わる民話と資料2を除き、名主の家でご馳走を食べるが、 その食べ方は動物的な食べ方をしている。川根本町に伝わる民話では、泉水の大きな鯉がいなくなる件があり、かなり動物的である。 資料2のその二と資料3以外は、犬が嫌いな僧侶として描かれており、非人間的な主人公を暗示している。
    たぬき和尚の残したもの
    資料2のその二以外は、一幅の絵を残している。資料2のその二では、調理法を残しており、 この話だけが他の話と異なっている。
    民話の結末について
    川根本町の民話及び資料1では、犬に殺されるという結末である。資料3でもたぬきは体罰を与えられるが、死には至っていない。 資料2では、たぬきに対しての体罰的な事は伝えられていない。
    僧侶にに化けて旅をした理由について
    これについては、様々な考え方があると思われるが、 「たぬき和尚」として語り継がれている民話については、私は権力に対するささやかな抵抗と捉えている。 その理由としては、庶民とは格違いの階級層に扮した主人公の様が描かれているからであり、 体罰や死という結末をむかえているからである。
    由来の起源としての語り継がれ
    一つは主人公が残した一幅の絵である。 これは、実在する絵に付加価値を付けるためと考えられる。そしてもう一つは調理法の伝承である。 そのどちらも人に有益な事となっている。
    川根本町に伝わる「たぬき和尚」の本質について
    川根本町に伝わる「たぬき和尚」では、 資料とした民話と異なる点が5点ほどある。
     まず第一点として、近隣の村から鎌倉建長寺の御使僧様が来るという件である。 これは、地名村で起こった事として伝えられているが、この件からは近隣地域までを含んだ問題として捉える事が出来る。
     第二点として、御寄進の件である。これに関しては、年貢等が厳しく難儀していたことがうかがえる。
     第三点として、一幅の絵の内容である。他の民話では大鹿が描かれているのに、この民話だけ「柳に鳩」の絵というのは、 前記したが、実在する絵に付加価値を付けるためであり、実際に大鹿の絵が無く「柳に鳩」の絵があったので、 この様な内容になったのではないかと思われる。また、実在する絵と民話が繋がる事により、 より真実性が上がるという効果も感じ取る事が出来る。
     第四点として、泉水の大きな鯉がいなくなるという件である。 これは、他の民話と大きく違う点で、夜に生き物を食べるという動物的な描写は、権力に対する非人道的な思いという深層心理をみることが出来る。
     第五点として、建長寺のお坊さんに化けた、古だぬきが、安倍川で、しっぺい太郎にかみ殺されたという件である。 この件には、二つの鍵となる事柄が含まれている。一つは安倍川で主人公が殺されたという伝承である。 資料1でも、他地域で殺されたと伝えられている。このにつ事柄については、手間になる事柄は他地域へ持って行く伝承の展開。 つまり、主人公の死という「負な事柄」を地域から排除した伝承となっているのである。 また、主人公を殺した犬が「霊犬・しっぺい太郎」という伝承も、他の民話では、ただ単に犬となっている事から考え、 知名度のあるものが登場することにより、より話に膨らみを持たす効果を狙っているが、地域から離れたものが登場することにより、 地域性が希薄化している。地域以外からの「名のある犬」の登場には、他力本願の深層心理が見え隠れしている。浄土教・阿弥陀信仰がこの地域に根付いていたのだろうか。
    結語
    民話・伝説には、その地域性や特質が陰ながら描写されている場合が少なくない。 今回は、川根本町に伝わる「たぬき和尚」について、他地域の同じ様な伝承と比較し、 民話が伝承された当時の地域性を、私見ながら知る事が出来た。 そのことから、この地方に伝わる民話を掘り下げて、古の後の世に伝えたい事実を探求し、 この場で報告していきたい。

    *​資料については、今回参考にしたその総てを、下方に記載する。

    資料1
    狸和尚
    むかし、宇久須にあったお話はなしです。 ある夕暮れ、大勢の共の者を従したがえて、 一つの美しいかごが村の中なかへ入ってきました。 その行列は、名主の屋敷の前までくるとぴたりと止ったのです。 びっくりして、とび出した名主に、共をしてきたお坊さんが、 「ここにおられるのは、おそれおおくも、 鎌倉は建長寺の貫主さまであられるぞ。 お前の村がたいそうお気に召されて、 急に一晩お泊まりなることになった。 そそうのないよう、つとめてくれ。」 と、言いました。 名主は今まで、そんな身分の高い人を泊めたことはないので、 このことばに二度びっくりし、一家は、上を下への大さわぎとなりました。
     ​かごから出てきた高僧は、目もさめるばかりの美しい衣に身を包つみ、 並み居る人々をしりめに、座敷へずんずん上って行きました。 美しい衣のわりには、何となく気品のない動作と顔だちだと思ったのは、名主だけだったでしょうか。 座に着ついた貫主は、名主に言いました。 「これ、名主よ、このあたりに犬はおるか。」 「はいはい、犬はたくさんおります。 なにしろ、狩りをする者も数多くおりますので。」 「何、たくさんいる。それは困る、わしは何がきらいといって、犬ほどきらいなものはない。 わしがここにいる間は、けっして犬をちかずけるな。 いいな、きっとだぞ。」 貫主は、よほど犬がきらいとみえて、 強く念を押すのでした。
     「さて、もう一つ。 わしは、食事を必ず一人でする。 給仕の者もよこすでない。」 名主の家は、ふだんは質素な食事でしたが、 今夜ばかりは、海山のあらゆるごちそうをいっぱい用意し、貫主さまにさしあげました。 別室で食事を済ませた貫主さまは、やがて満足げに おなかを さすりながら出てきました。 そして名主に言いいました。 「今夜はたいそうなごちそうにあずかり、ありがたかった、 そのお礼に一筆残しておこうと思う、すずりの用意をしてくれ。」 名主はその言葉に喜よろこび、さっそくすずりと大きな紙を持ってこさせ、 うやうやしく貫主の前に置いて、墨をすって用意しました。 貫主は筆をとると、いともあざやかに、 大きな鹿が飛び跳ねている絵を書いたのです。 名主を初め、そこに居並ぶ人たちは、そのみごとさに目をうばわれました。
     翌朝、一行は名主の家を去り、 どこともなくこの村から、消えました。「ごりっぱなお坊さんと聞きましたが、 食事の仕方しかたはずいぶんきたなかったです。まるで、猫が食べたあとのようでした。」と、 名主の奥さんと下女が言いいました。 名主は、動作や顔に品がないな、と、ちらっと感じたことと一致するなとは思ったが、 だれにも、何も言わずにいました。 そして、残された鹿の絵だけを尊い記念と、 家宝のごとくたいせつにしまっておきました。
     ​さて一行は、その後伊豆のあちらこちらを巡り、 宿をとり、さかんなもてなしを受けました。 貫主、鹿の絵を残してはお礼としていました。 そんなある日、川の渡し場にさしかかったときのことです。 共の者がずいぶん気をつていたのにもかかわらず、 一匹の白しろい犬が、かごのそばへ近づいてきました。 はっと思ったが、もうおそかったのです。 犬は、かごにとびかかりました。 おおぜいの共が棒ぼうきれや石で追い払っても、 いっこうに逃げる気配はありません。 それどころか、なおいっそう大声でかごに向ってほえたて、 とびかかり、とうとう中まで入っていきました。 中で「ギャッ」と、恐おそろしい声こえが聞きこえたと 同時どうじに、 犬は 一匹の大狸の死体を 引きずり下おろして出でてきたのです。 お共の者は、何が何やらわかりません。 貫主の姿は見えず、大狸が一匹・・・・・・・・いったい、貫主はいつ狸になったのでしょう。 だれにもわかりませんでした。 みごとな鹿の絵を書き残したあの貫主が、実は狸であったと知られ、 その絵は「狸の書かいた大鹿」として、いよいよ珍しがられたということです。
    (伊豆の昔話・民話より)

    資料2
    建長寺様  
    その一
    「なんてまぁーありがたいことじゃないか、こんな山の村にまで建長寺の住職さんがお説教にと、 お出で下さるとは」名主のお触れで大塩(おおしお)に建長寺様が来ることを知らされた村の人たちには、 ことの外の喜びであった。 「建長寺様は犬は嫌いだ。当日各家の犬はつなぐように」とのきついお達しがあった。 当日会場にあてられた法永寺には、朝早くから村の人たちが集まって、準備をし、お待ち申していた。 「犬はつないだかぁー」先触れの人たちの声がして、しばらくした後、 建長寺様が乗られたお駕籠と、それに続く行列が寺にお着きになった。 「ただただ有難いでのー…」極楽三昧のうちにお説教が終った。お昼のご飯となると「給仕はいらぬ」と ご馳走が運ばれた部屋は戸を閉めて、建長寺さん一人だけで食べられた。
     「建長寺さんともあろう坊さんが……」と不審に思った村人たちが、戸の節穴からこっそりと中の様子をうかがうと、 これまたびっくり。ご馳走をみんな膳にあけて、両手をついて舌にて掻き寄せては食べていたとのこと。 そして膳のまわりはご飯粒だらけであったとのこと。
     お出での記念に揮毫(きごう)を頼むと、「よしよし」と頷いて墨をすり、 すり終わると部屋は一人だけにして、せっかく準備した太筆は使わずに皿の墨汁に背を向けて、 尻尾のような筆で何やら書かれたが、字とも絵とも判断がされなかったものであった。
     夕飯前にお風呂をとすすめると、「流し(風呂場で体を洗ってやる人)はいらぬ」といい、 閉めきった風呂場からはバタバタと異様な音が洩れたという。 上られた風呂場を見てまたもびっくり。浴槽は空っぽになって、 風呂場の窓や壁から天井までがびしょ濡れになっていたとのこと。
     翌朝、村外れまでお送りして、名主を初め村の人たちはほっとしたが、何としてもわからないことがいくつか残った。 子供のころご飯を喰いこぼすと「なんだ建長寺様のようではないか」といわれ、 小学校に上ったころ書いた図画や習字の不出来なものを見ては、 建長寺様が書いたようなものではないかといってよく笑われた。
     
    資料2
    建長寺様​
    その二
    大塩村・上大塩の「大家」という屋号の家に、建長寺の僧と名乗る一人の旅僧が、一夜の宿を求めた。 これに応じた大家の者に僧は、晩めしにはこれこれのものをこしらえてくれ、米の飯はいらないと言ったので、 家の者はその通りのものを作って、僧の部屋に運んだ。
     「食事中部屋をのぞくな」と言って襖を閉めた僧の言葉に、不審を抱いた家人が、そっと襖を細くあけて中を見ると、 一匹の大狸が大どんぶりの煮物へ口を突っ込んで、おいしそうに家人が僧のいう通りに作ったものを食っているのであった。 思わず家の者が悲鳴をあげると、狸は、襖を蹴破って外へ飛び出して行った。
     僧が家の者に頼んだのは、食い油、大根、豆腐、白イモなどを使った汁煮(しるに)で、 こんなものは今まで作ったことのないもので、鍋に残ったその味のよさは格別だった。 たちまち、この汁煮が「建長寺」の名で村中にひろまり、それがいつしかなまって 「けんちゃん」とか「けんちん」となったのだという。
    「建長寺様」(旧中富町大須成)(身延の民話より)

    資料3
    たぬき和尚
    昔、ある村を見渡す杉の木の下で、一匹の子だぬきが、毎日村の方を眺めてはため息をついていた。 子だぬきは、人間の住む里には美味いものがたくさんあり、それをたらふく食べてみたいと思っていたのだ。 どうしても人間の食べ物を食べたくなった子だぬきは、人里に下りてみることにした。 母だぬきが止めるのも聞かず、子だぬきは夜になるとこっそり巣穴を抜け出して山を下りた。
     村の入口まで下りてきた子だぬきは、さっそく高僧の姿に化けて駕篭かきの前に現れた。 子だぬきは言う、「ワシは、山向こうの大寺の貫首(かんじゅ)である。 この村に見回りで立ち寄った。駕籠で案内せい。」 こうして貫首に化けた子だぬきは、美味いものがたくさん食べられそうな名主の家に向かった。
     名主の家では貫首をもてなすため、風呂を沸かし、たくさんのご馳走を作った。 子だぬきは人払いをすると、並べられたご馳走をガツガツと食べ始めた。 子だぬきの思った通り、人間の食べ物はとても美味しかった。
     翌朝、ご馳走のお礼を名主に述べると、名主は記念に一筆お願いしたいと言う。 そこで子だぬきは、1枚の鹿の絵を描いて名主に渡した。その絵はいとも鮮やかで、 大きな鹿が今にも飛び跳ねようとしている、なかなか見事なものだった。
     このことに味をしめた子だぬき、今度は隣村に行って美味いものを食べようと、 駕籠で隣村に向かった。ところが隣村への渡し場で、どこからともなく野良犬が出てきて、 駕籠の中の子だぬきに向かって飛び掛かってきたのだ。 子だぬきはたまらず、元のタヌキの姿に戻って逃げようとする。 これを見た駕篭かきは、「こいつ、最初からタヌキだったのか!?俺たちをだましおって!!」と言って怒り、 子だぬきを散々棒で叩いて、半殺しにしてしまった。
     ​子だぬきは傷ついた体を起こすと、ほうほうの体で山に帰って行く。 そして、このことに懲りて、二度と人里に下りてくることはなかった。 そして、子だぬきが貫首に化けて描いた大鹿の絵は、いつまでも名主の家に残っていたそうな。
    (まんが日本昔話より・まんが日本昔ばなし・データベースより)

    たぬき和尚

    • 2016.01.09 Saturday
    • 06:26
     今から、およそ二百三十年前(宝暦年間)の中川根町は、下長尾村、下泉村、地名村というように、 小さな村々に分かれていました。村には名主といって村長さんのような役目をする人がいました。 ここ地名村の名主さんは、人々の願いや考えをうまくまとめるので、 だれもがなかよく助け合って暮らしていました。 九月のある日、地名村の名主作之丞のところへ、笹間渡村の名主伝五郎の参事(使いのもの) が文函(手紙を入れて運ぶ細長い箱)をとどけて来ました。 手紙は、島田代官所代官・辻源五郎が、村々へ回覧板のように回したものでした。 「鎌倉建長寺の御使僧様が、その方の村へ行くから、そまつに扱ってはいけない。」 という通知でした。作之丞は、地名の参事に文函を下泉村に送らせて、大きなため息をつきました。 そのころのうわさが、いよいよ本物になってきたので、「一体全体どうなるもんだか。」 と心配になってきたのです。「そそうする(しっぱいする)と、代官所へふんずかまる。」 作之丞の頭の中には、村の衆の顔がうかびました。 村人たちは、日照り続きでところどころ枯れかかった畑の作物を眺めながら、 うわさ話に夢中になっていました。
    「和尚さんは、ぜったいに体を見せんだって。」
    「和尚さんは、古いたぬきのばけものだって。」
    「犬がいると怒るだって。」
     十一月の初めころ、伝五郎の参事が来ました。 「御使僧様が、昨夜わたしの家へお泊りになったので、きょう、午後二時ごろ、 こちら様へおいでになります。」と告げました。 村役人たちは、おろおろしながら、参事にいろいろ聞きました。 「うらあ、下人だで、よっかあわからんけえが、何でも和尚さんを拝むこたあ、 できんけっちょう。白い着物の伴僧二人と、かごかき二人で、五人来た。うらにゃあ、なんにもわからんで・・・・・。」 と、参事は、わからんのいってんばりでした。
     作之丞や役人たちは、一張羅の羽織羽織、袴で、おむかえのしたくに取りかかりました。 町人袴の上にカンロク羽織を着ていますが、木綿のお粗末なものです。 それでも二人の名主だけは、古い扇子を持って、小さなチョン髷を結っています。
    御使僧様のかごが、クヌギ峠をこえるころ、村役人たちは作之丞の家の前の往還(道路)に出て、 西日の中に立ちならびました。中の沢を渡り、太郎渕の水面にがごの行列が映るのを見て、 参事が走ってきました。一同は、着物のホコリをはらって心を引きしめました。 郷土屋敷(ごうどやしき)で、かごがいっぷく(少し休むこと)している時、伴僧の一人が来ました。 「御使僧様のお成りです。おかごでそのままお入りになるから、手落ちのないように。 犬はつないであるな、犬はいないな、くれぐれもご無礼にならんように。」 と告げました。
    「犬んこたあ、ふんとだ。」
    「犬んこたあ、ふんとだ。」
    と、 人々は目と目で通じ合いました。かごが栗下の畑を通ると、一同は、道ばたに土下座しました。 「ハッハー。」と、顔を地面にすりつけておむかえしました。 かごは、音もなく通りすぎて行きました。一同は、ビクビクしながら顔を上げました。 もう、かごは名主の作之丞の家の門の中に隠れて見えませんでした。 名主で主人の作之丞は、腰をかかめながら奥座敷の庭につながる木戸を開けて、 土下座しました。かごは、かついだまんま大きな池の横を通って、縁側に下ろされました。 伴僧が、かごのすだれをまくると、御使僧様ははい出るようにして、奥座敷へ入りました。 あっ、という間に伴僧が障子をたちました。かごかき人足は、御上で休みました。
     しばらくして伴僧が出て来て、「村役人一同に、お目通りのお許しが出た。こちらへ。」 と言いました。一同は、中出居のすみっこに、ひとかたまりになって控えました。 伴僧が「ただいまから、お出ましになられます。一同は平伏しておまちになるように。」 と言いました。一同が、畳に両手をついて、頭を下げると、「シッシィー。」と、声がかかり、 奥座敷の襖があきました。伴僧の声で「鎌倉建長寺の大僧正様にあられます。『一同の者 、本日は大儀であった。』とのおことばでございます。」 と言うといっしょに、スゥーと、襖をたつ音がしました。 一同が顔を上げた時には、御使僧様はもちろん、伴僧のだれもいませんでした。 それとなく村役人たちは、台所に寄って来ました。自分の思った通りに、正直に言とうわけにもいかず、 小さな声で、あーだ、こーだと話し合うばかりでした。
     ふたたび伴僧が来て、「このたび、建長寺の造営にあたって、地名村にも御寄進 (お金などを社寺に寄付する)をさせてやるから、喜んで受けるように。」 と言って、奉書を差し出しました。 それには『金十』と書いてあったので、一同は、びっくりしました。 十両というのは、そのころの地名村の上納金の約1か年分の金額だからです。 役人たちは、「こりゃー、大変だ。」「どーにも、困ったもんだ。」と、下を向くばかりでした。
     もう一人の名主庄兵衛がふるえる声で口を切りました。 「こんな事だたあ思っていたっけ。なんしょ十両じゃ、ちいっといかすぎて話にならん。 どうだい。もうちっとへらいてもらうように、たのんでみまいか。」 「そりゃあ、よいこんだ。」と、話が決まりました。 役人たちは顔を畳にすりつけて、「おそれながら、少々お願いの儀がございます。お供僧様にお目通り願います。」 すると、伴僧の一人が現れました。「当村は村も小さく、この日照りで農作物も不作であります。 その上、鹿に畑を荒らされ、村人は困っています。どうか、ご寄進の件を、軽くして下さいますよう、 お取つぎ願います。」と、必死になってお願いしました。 それを聞いた伴僧は、奥座敷へ引っ込みましたが、今度は別の伴僧が出てきて、 「どこの村でもありがたくお請けしたのに、当村だけ出来ないとは、もっての外だ。 まんいち大僧正様のごきげんにおさわりになると、どんなおとがめになるかわからない。 奉書通りにするが、村のためによろしかろう。」と、言うやいなや、 サッと奥の間に入ってしまいました。しかたなく、村役人は、やっとのことで集めた金十両を和紙に包んで、 泣く泣く寄進することにしました。
     「ありゃあ、何の音だ?」と、役人の一人が夜中に言い出しました。 ペチャペチャなんか食べるようでもあり、ガーガーいびきのようでもありました。 生まれて初めて聞く、きみょうな音です。あたりは真っ暗です。役人たちは見にいくこともできません。 バリバリ、バシャバシャという音に震えながら、朝の来るのをじっと待ちました。
     翌朝星の消えかかるころ、伴僧が「を。」と言うので差し出しました。 ほどなく、「これを大僧正様が、当家へお下げ(くださる)になります。」 と言って一幅の絵を持ってきました。それは、『柳に鳩』の絵でした。 作之丞は、「なんというきみょうな組み合わせの絵だ。」と首をかしげながら、 ありがたくいただきました。
     かわたれどき(夜明け時のまだうす暗い時分)に 御使僧様は、奥縁からかごに乗って、そのままつぎの村へ行ってしまいました。 たくさんいた泉水の大きな鯉は一ぴきも姿をみせなくなってしまいました。また、泉水のまわりには、 色づき始めたトノサマモミジの葉が一面に散らばっていました。 作之丞や村役人たちは、ただ朝もやの中で、ぼうぜんと 後ろ姿を見送っていました。まるでたぬきにでもだまされたように、ポカンと立ちつくしているだけでした。
     やがて、秋が過ぎて、小雪のちらつくころ、 「建長寺のお坊さんに化けた、古だぬきが、安倍川で、しっぺい太郎にかみ殺された。」 といううわさが流れてきました。 名主作之丞の家では、代々この絵を大事にして、今でも保管しているそうです。
    (中川根のむかし話より・原文のまま)


    この写真は、たぬき和尚が通ってきたであろう場所です。右奥には本文中に出てくる「太郎淵」が見えます。大井川沿いには旧道があり、たぬき和尚一行は、この道を通って地名地区に入ったと思われます。地名地区に残されている「見返し峠」の民話も、この上の方の峠から「オロチ」が襲ってくる話となっています。

    ひじり坊

    • 2015.12.30 Wednesday
    • 07:16
    JUGEMテーマ:ぶらり旅
    大井川鐵道本線崎平駅から徒歩で7-8分位の所に八幡神社はあります。崎平駅から362号線に出て、山の方に登って行く道が見えるので、それを道なりに登って行くと鳥居が見えてきます。この八幡神社に関連した、「ひじり坊」という民話が残されています。
     
     むかし、今から320から330年前の寒い夜の出来事です。 山から吹き下ろす風は冷たく、手や足がちぎれそうな寒さのきびしい夜でした。 一人のお坊さんが、坂京の一軒の農家に立ち寄りました。 その姿は見るからに寒そうで、とても気の毒な様子でした。 お坊さんはガタガタふるえながら戸口に立って、 「こんばんわ。わたしは旅の坊主ですが、寒くて寒くてたまりません。 少しでいいから火にあたらせてください。」とたのみました。 すると。その家のおばあさんは、お坊さんの姿を見て、とてもかわいそうに思い、 「さあさ、その錫杖をそこに置いてあたっといで。」 と、お坊さんがわきに置こうとした錫杖を受け取りました。 そして、その錫杖を棚の上にのせようと持ち上げたとたん、 「これはたまらん、たすけてくれぇ。」 何をかん違いしたのか、お坊さんはあわてて立ち上がり、きゅうに逃げ出しました。 おばあさんは何が何だかわからなくなっかったけれど、 (逃げていくということは、もしかすると泥棒じゃないか)と思い、 大声で「泥棒だぁ。」とさけびながらお坊さんのあとを追いかけました。
     それを聞いた坂京の人たちも集まってきて、みんなでお坊さんを追いかけました。 お坊さんは、「助けてくれぇ、おれは泥棒じゃない。たすけてくれぇ。」 と叫びながら坂道をかけおりていきます。 村人たちに崎平のひとたちも加わって、手に手に石を持ち、大井川まで追いつめ、 いっせいに石を投げつけたのです。お坊さんはいっしょうけんめい逃げ回りましたが、 大きな石が頭にあたり、とうとう死んでしまいました。
     その次の年、崎平の村に悪い病気がはやり、村人たちはとても苦しみました。 「こりゃあ、きっとあの坊さんのたたりに違いない。」「ほうっておいたら大変なことになるぞ。」 するとある村人が「お坊さんをおまつりしたらどうだろうか。」と言いました。 それを聞いた村のまとめ役が相談して、お坊さんを八幡神社の境内にまつることになりました。
     ​それからというもの、悪い病気もおさまり、平和な暮らしに戻ったので、 「ひじり坊」として今でもおまつりしています。
    *崎平の八幡神社には、ひじり坊の供養塔と思われる「石」が今でも残されています。 また、坂京地方に伝わる「ミサキ神楽」は、この「ひじり坊」のたたりを鎮めるための神事だといわれています。
    (ダムジン第10号より、原文のまま)

    まず初めに、坂京という地区の簡単に​紹介します。田代の大井神社から362号線をこえて山側の道を3・8km位登った所です。山間の集落で、とても眺めが良い所です。集落を抜けてそのまま山道を走ると、静岡市の清沢方面へと抜けていきます。この写真は、坂京の写真です。手前には、これから大きくなる茶の木が植えられていました。その向こうには何軒かの民家が見えます。そして、その向こうには、山々が連なっています。

    この写真は、「ひじり坊」の供養塔です。苔生していて、時の流れを感じさせます。石にはしめ縄が巻かれ、供養塔としての存在を表しています。手前には、お賽銭の5円玉が置かれていました。今でも、信仰が息づいている事の証だと思います。

    見返し峠

    • 2015.12.23 Wednesday
    • 16:29
    JUGEMテーマ:ぶらり旅
    今はむかしのことになってしまいましたが、 大井川の上流、地名村の人々は、オロチの害に困り切っていました。 峠をこえたとなり、桑の山村(今の島田市川根町笹間)から、 毎夜のようにあらわれる、そのオロチは、長さ五(9m)ぐらいあり、 胴の太さは、村に一軒しかない酒屋の軒先にいつでもころがっている 四だる(周り90僂阿蕕ぁ砲曚匹發△蠅泙靴拭 オロチは夜しか襲ってきませんでした。 目は火のように赤く光り、遠くの峠を下りてくる姿を 村から見ることができました。 オロチがやってくる前に、村人は家の中にこもり、 あま戸をしめ、入り口の大戸に心張り棒をしっかりとかい、息を殺して、 桑の山に帰るのを、今か今かと待っていました。 オロチはにわとり小屋をこわして、にわとりを食べたり、 かっているうさぎなどをとってたりしましたが、 不思議なことには、納屋の米を食べて行く事もありました。 地名村の人たちは、何度も寺に集まり、オロチ退治について相談しましたが、 よい考えはさっぱりありませんでした。 毎日のように恐ろしい夜が続きました。 そんなある日、村に一人の若い武士がやって来て宿をとり、 オロチの話を聞きながら、しきりに首をかたむけていましたが、やがて、 「誠に気の毒なことだ。わたしが退治してあげましょう。村中の弓を集め、 弓のじょうずな若者に集まってもらってください。私には米を食われた場所を見せてください。」 と言って、米を食われた家の納屋に案内してもらい、熱心にその場を調べていました。 それから、集まった村人に指図をし、するどい矢と柿しぶと、たばこのヤニをたくさん集めさせました。 武士は弓のじょうずな若者を二組に分け、片方には、矢じりと柿しぶと、たばこのヤニをたっぷりとぬりつけるように命じました。もう一方には、矢をするどくとぐように命じました。 夕方がきました。武士は、オロチが通る村の入口に、弓を持った若者たちを伏せさせ、柿しぶをぬった矢を持った者たちには、 オロチの頭や胴をねらえと命じました。何もぬらない矢の者たちには、オロチの胴の下をねらえと命じました。 夜に入り、風がゴーッと峰を吹きぬけると、いつもの峠にオロチの火のような目が見え、 地名村に向かって降りてきました。 武士は恐れる人々をはげましながら、先頭の場所に身をひそめ、私が射るのを合図に、 命じた通りに一斉に射よと伝えました。ザワザワと地をこする音と、木の小枝の折れる音とともにやがてオロチは 村に入ってきました。人々が息を殺してひそんでいる場所に、オロチの赤い目がさしかかった時、 武士がさっと立ち上がり、ねらいすました矢をオロチの目に射こんで「それ射よ、おくせるな(びくびくしているな)。」 と、どなりました。人々も一斉に命じられた通り矢をはなちました。 オロチは、「アッ。」と、人のような声を出し、たくさんの矢をあびると、あわてて向きを変え、 峠の方に引き返しました。傷ついたオロチが峠をこえる時、地名の方をふり返りましたが、 赤い火のような目は、武士に射られてかた目になっていました。 オロチを射った場所にはおびただしい赤い血が流れ、そまつな小刀がそこに落ちていたと伝えられています。 また、その後二度とオロチが村を襲うことはなかったということです。 それから地名の人たちは、オロチがふり返った峠を「見返し。」と呼び、今でも『見返し峠』と言っています。 ただ、若い武士のその後については、だれ一人知る人はありません。

    地名と石風呂の間の大井川にかかる昭和橋のたもとに立って、東の方を望見すると、 あれが見返し峠、その近くが『うとろ大日』その左の方が『くぬぎ大日』と地名をとりまく七大日が続いています。 見返し峠は、地名トンネルの手前の山を登った頂きです。峠を越せば、すぐ下は笹間の村です。 大井川すじには大蛇の伝説が各地にあり、大井川の主も大蛇だと言われ、『鵜山の七曲り』は大蛇のように、くねくねと 曲って大井川を流れています。むかしの人々は、大自然を生き物のように恐れたり、祭ったりしてきたのです。 夜ごと夜ごと地名村をおそったオロチも、人々の知恵と力にはかなわなかったようです。
    (中川根のむかし話より・原文のまま)


    この写真は、昭和橋から見た見返し峠の風景です。写真の大井川の右手奥には、「太郎淵」と呼ばれる淵があり、そこの沢を登って行くと「うとろ大日」があります。『うとろ』とは、じめじめとした湿気のある場所を指しています。正面の山の頂が見返り峠です。「くぬぎ大日」は、77号線から山側に入りしばらく走った山の頂にあります。恐らく、笹間の村との境だったのでしょう。実際にこの地を歩いてみると、下線を引いた部分の描写(位置関係など)には、疑問が生じます。
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    かさじぞう(いぼじぞう)

    • 2015.12.18 Friday
    • 07:53
    JUGEMテーマ:ぶらり旅
    大井川流域の伝説・民話・むかし話 目次へ
    最寄りの駅は大井川鐵道本線・青部駅ですが、駿河徳山駅との中間位の所にあります。どちらにせよ、駅から結構離れているので、車での訪問が良いと思います。県道77号線を北上し、萬世橋を越えて道なりに走ると右手に大井川に架かる橋があるので、その橋を渡り坂を上るような感じで走ると、T字路に出るのでそこを左に曲がった直ぐ右上に、かさじぞう(いぼじぞう)はあります。

    むかしむかしの話です。沢間の里に体いっぱいすきまがないくらいおできができていお坊さんが住んでいました。 お坊さんは毎日毎日おできをさすっては、つらそうになみだを流して苦しんでいました。 ある日そのお坊さんが、 「こんな苦しくてはたまらない。きっと私以外にもおできで苦しんでいるがいるはずだ。私は、そういう人の苦しみをみんな引き受けてやりたい。 そのためには私を生きうめにしてください。」と村人にたのみました。 「いくらお坊さんのたのみでも、そんなこと、わしらにゃできんよ。」 「いつもみんなのためにはたらいてくれているお坊さんを死なすわけにはいかない。なんとか考えなおしておくれ。」 とお坊さんに考えなおしてもらうようにたのみましたが、 「みなさんのために。それから、苦しんでいる人のためのにだ。私一人の命はおしくない。ぜひお願いだ。」 と頭を下げていっしょうけんめいにたのむのでした。 そのお坊さんのしんけんでいっしょうけんめいな顔を見ると、村人たちは、お坊さんの言うとおり生きうめにしたほうがいいのか、 お世話になっているお坊さんを助けたほうがいいのか困ってしまいました。そこへあるお年寄りがやってきて、 「お坊さん、やっぱしわしらにゃそんなことできんよ。」と言いました。 するとお坊さんは前よりももっと力のこもった、強い決心をしたような声で、 「いやいやそんなことはない。私一人の命より、たくさんの人を苦しみから救うほうが大切だ。 これからわしの言うとおりにして、力をかしてくれ。みなさんたのむ。このとおりだ。」 お坊さんはいっそう頭をさげて地面に頭ついてしまうほどでした。 それをみた村人は、お坊さんが本当に強い決心をしているのがわかり、ついに お坊さんの手伝いをすることにしました。 次の日、村の人はくわなどを持ちより山の下まで集まってきましたが、 「本当にうめてしまうかなあ。」 「たたりがあるかもしれんなあ。」 「そんなことはないさ、お坊さんが自分でたのんだことだからな。」 と話しておりました。そこへお坊さんがやってきて、 「やあ、みなさん。これからたのみますよ。」 とふだんとまったくかわらないにこやかなあいさつをしました。 いよいよお坊さんが話したとおりに村人はあなをほり始めました。 穴は、お坊さんが入れる位の大きさでした。 村人はあなをほりながらも、お坊さんのことが心配で心配でたまりませんでした。 しばらくしてあなをほり終わると、お坊さんはかねとじゅずを持ってあなの中に入って静かに正座をしました。 そして、「上に丸太を重ねて土をかぶせてください。私はかねを打ちながらお経を読みますから、 かねの音とお経を読む声が聞こえなくなったら死んだと思ってください。それではたのみましたよ。」 といって、お経を読み始めました。 その声は村人の心にひびくような静かで落ち着いた声でした。 村人は目になみだをうかべながら丸太をならべ、そのうえに土をかぶせ小山のようにしました。 かねの音とお経を読む声は十四・十五日続いていましたが、 日一日と小さくなっていき、二十日目あたりからはまったく聞こえなくなってしまいました。 「ああ、ついにお坊さんも息たえてしまったのかな。」 「いやいや、まだ生きていてくれるかもしれんぞ。」 と、毎日のように集まってはお坊さんの心配をしていた村人も かねの音とお経を読む声が聞こえなくなってしまったので、お坊さんが入ったあなをの上におじぞうさまをたてて 供養することにしました。それからというもの、病気になったりおかさは、できができたりしたときに、 「おじぞうさま、おできができました。どうか治してください。」 とおねがいすると、ふしぎなことに病気やおできが治ったそうです。 今でも、このかさじぞうさまの前には、お参りに来た人のそなえた花がたえることはないそうです。
    *かさは、漢字で「瘡」とかき、おできのことである。
    ​(本川根のむかし話第二集より:原文のまま)

     
    これが、かさじぞう(いぼじぞう)さんの全景です。地元では信仰を集めており、千頭に住むお年寄りから聞いた話では、小さい頃にはおばあさんとよくこのおじぞうさんにお参りに来たものだよと、昔から信仰を集めていたことを聞きました。「あそこのおじぞうさんは、ご利益がある。」と言う話もよく聞きます。現在お堂が建っている場所は工事のため、1mほどですが、移転しているという事でした。
    かさじぞう(いぼじぞう)さんの近接写真です。石に刻まれていたはずの像や文字を判読する事は出来ません。それだけ年月が経ち、信仰され続けている事を意味しています。

    近隣にあるいぼ地蔵は、島田市に2カ所あります。 いぼとり地蔵・大井川地蔵尊(島田市稲荷町1−3 大井川公園)、いぼ地蔵(島田市岸・大日堂) このほかにも、藤枝市や焼津市など、色々な所にあるようです。
    追記:地元の人に聞いた話ですが、元々は大井川の西岸にあったそうですが、「眺めの良い所に行きたい。」というお告げがあり、大井川の東岸の見晴らしの良い山の上に移転されましたが、地元の人のお参りが大変だという事で、山の下に​移されたそうです。
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    あんけんさん

    • 2015.12.16 Wednesday
    • 05:58
    JUGEMテーマ:ぶらり旅
    大井川流域の民話・伝説・むかし話​ 目次へ

    むかし、お経をあげながら修行の旅を続ける「あんけん」というお坊さんがいました。 「あんけん」が、大井川上流の藤川までやってきたとき、ポツポツと小さなおできができはじめました。 すぐに治るだろうと思っていましたが、全身に拡がってしまったので、藤川で治療することにしました。 村人は、「あんけんさん、おできにはこの薬が効くよ。」といってくすりをぬってくれたり、飲み薬が良いと聞けば煎じて飲ませてくれたりしました。 ところが、「あんけん」のおできは治るどころかひどくなってしまいました。 「あんけん」は治療をあきらめ、「わたしのおできはもう治らないだろう。 そこで生き仏になって、おできやケガで苦しむ人達を助けてあげたい。どうか手を貸して下さい。」と村人に伝えました。 それを聞いた村人はビックリして必死でやめさせようとしましたが、「あんけん」の真剣な気持ちを変えることはできず、 手助けをすることにしました。 村人が穴を掘り終えると、「あんけん」は一人ひとりに丁寧にお礼を言って、 「この竹の筒からお線香の煙が上がらなくなった時、私が死んだと思って下さい。死んでからも、みなさんが 病気で苦しまないように見守っていますよ」と言うと穴をふさいでもらった後、「あんけん」は手探りで線香に火をつけ、 お経を唱えはじめました。 村人は、次の日も、また次の日も穴の周りに集まって煙をたしかめ、 「あぁ、今日もあんけんさんは生きていなさる。どうか苦しまないで終わって下さい。」と手を合わせて祈るだけでした。 二十五日目の朝、とぎれかけていた薄い煙が、ふいにはっきりとした一本の筋となって天に向かって立ち昇ったかと思うと、それっきり途切れてしまいました。 「あんけん」は生き仏になったのです。村人は、尊い命を絶った「あんけん」のために小さなお堂を建て、菩薩様を作り「あんけん大菩薩」として祀りました。 今でも、十月になると方丈様がお経をあげ、投げ餅をしたり、ご馳走をが供えたりしておまつりしています。 昭和三十年頃までは、おできやものもらい・擦り傷・切り傷ができると、「あんけんさん」にお供えしたお茶やお水を 傷口につけて、早く治るようにとお願いしたそうです。 今では、お供え物を傷口につける人はいなくなってしまいましたが、「お守りに」ともらって帰る人がいるそうです。
    (​長島ダム情報誌 ダムジンより:原文のまま)


    大井川鐵道・大井川本線の駿河徳山駅から徒歩15分位の所に、「あんけんさん」はあります。駿河徳山駅を出て踏切を渡り、県道77号線に出て右手に進み、萬世橋を越えて道なりです。簡易郵便局が見えたらそこを右手に曲がり、まっすぐ進むと大井川に出るので、そこを左に曲がります。この道は未舗装です。行き止まりの様な感じになった所の左上に小さなお堂があります。左手に道を登ると、そこが「あんけんさん」です。ちょっと探し難いかもしれません。「あんけんさん」の案内看板が目印となると思います。

    これが、「あんけんさん」のお堂です。小さいながら、綺麗に掃除されています。「あんけんさん」への信仰が伺い知れます。因みに、お堂に中を見る事は出来ません。

    お堂の近くには、大きないちょうの木があったそうです。今は切り倒されています。以前には、このいちょうの木になる「きんなん」を拾いに地元の人達は来たそうです。その度に、「あんけんさん」を拝んだ事でしょう。

    お堂の裏手には、変わった形の石が2つ置かれていました。後世に置かれたものと思います。夫婦を表しているのでしょうか。夫婦仲睦まじく健康であれと言う願いが込められているのでしょう。「あんけんさん」を訪れ、「愛」という一文字に触れた様な気がしました。色々な意味で、心が温まる一時を過ごす事が出来ました。

    天狗の岩石

    • 2015.12.13 Sunday
    • 15:20
    JUGEMテーマ:ぶらり旅
    大井川流域の民話・伝説・むかし話​ 目次へ
    大井川鐵道本線・大和田駅から歩いて10分位の所に大和田八幡神社はあります。駅から坂道を登り、国道473号線に出て右手家山方面に進み、​桜トンネルの手前の左カーブの所を鋭角に山側に上ると大和田八幡神社が見えてきます。この神社のまつわる民話が、「天狗の岩石」です。
     
    むかし、むかし。大和田の里に、お日様が東の山から上るころ畑へ出て働き、西の山に沈むころくわをかついで家に帰る、それはそれは働き者の駒吉 という百姓の若者がいました。駒吉は、両親の彦左衛門、おたみと三人ぐらしでした。 里の人からは、駒やん、彦どん、たあさんと呼ばれ仲むつまじくくらしていました。 駒やんは大へん頭もよく、近所でも評判の親孝行息子でした。 ある日、駒やんは山一つ越えたとなり村から、にわとりを三羽買ってきて、とり小屋を庭につくり飼うことにしました。 夕方、畑から帰ってきて、 「トーットットットッ、トーットットットッ」と、よぶと、三羽のにわとりは羽をひろげ、からだをゆすりながらとんできて、 麦ぬかときざんだなっ葉の餌を口ばしついばんでは食べ、のどをならして水をのみました。まことにおだやかな生活でした。 駒やんは、このにわとりの卵を里の人たちに売ってはいくらかのくらしのたしにしていました。 ある年、畑のきび、ひえ、あわの取り入れも終わり、田んぼの稲もやっと黄金色に実った秋の朝のことでした。 駒やんは、餌をやりにとり小屋に行ってみると、羽毛が一面に広がっていて、一羽のにわとりがみえません。 そこで駒やんは、「どいつのしわざだ、ふんずかまえてくれよう。」と、 とり小屋にしかけをしました。あくる朝、「とりは大丈夫だろうか。」と、 思っていってみると、また一羽えじきにされてしまっていました。 みると小屋の割れ竹にきつねの毛がついていました。 「ちくしょう、思ったとおりきつねのやろうか。ふんずかまえてくれる。」 駒やんはとなりの家の犬を借りてきて、1日中きつねの寝屋をさがして、山を歩き回りました。 すると突然、岩穴に向かって犬がさか毛を立ててほえはじめました。 「ウウーッ、ワン、ワン、ワン・・・。」犬のなき声は、あたりの山々にこだましました。 そこは、駒やんの家のすぐ裏の山のしげみでした。駒やんが岩穴をのぞくと、とり小屋についていた毛と 全く同じ毛が穴の入口に付いていました。 「でかしたぞ、クロ。」犬の頭を何回も何回もなでてやりました。 「このきつねのちくしょうめ、往生せい。」 枯枝を集めて、入口で火を燃やしはじめました。 めらめらと木の枝は燃え、煙はもくもくと立ちのぼり、岩穴の中にいきおいよく入っていきました。 駒やんは、あたりにあった棒をふりあげて、「出てこいこのわるったきつね、こらしめてやる。」 きつねは穴の奥深く入ったまま出てきません。子ぎつねでもいるのでしょうか。 「きつねのやろうめ、外へ出られんくしてやる。」駒やんあたりから石を運んできては岩穴につめこみ、 運んできては岩穴につめこみ、とうとう穴をふさいでしまいました。 「やれやれ、これで明日からにわとりを安全だわい。」と駒やんは意気揚々と家に帰ってきました。 家についたころには、すっかり夜のとばりがおりていました。家で駒やんの帰りを待っていた父さんと母さんは、駒やんから今日一日の出来事を聞いて一夜を明かしました。 二日過ぎた昼、母さんは急に汗がふき出し、熱病におかされ床に伏してしまいました。 孝行息子の駒やんは、一生けん命に母さんの看病をしました。しかし、病気は一向によくなりません。 むしろ、体はだんだん弱っていきました。駒やんは、母さんの病気を早く治してやりたい一心から、村の八幡様に昼夜こもってお祈りしました。 「神様どうか母さんの病気を早くよくして下さい。おらあ、食をたってお願いしますで。」 三日目の晩のこと、母さんの枕元に赤い顔に高い鼻、大きな体の天狗があらわれて、 「苦しかろうおたみ、お前の病気は岩穴に閉じ込められている親子ぎつねのおん念だ。早く助けてやったら病気もよくなるはずじゃ。」 と、言ったかと思うと、天狗はスッと姿を消してしまいました。おたみから天狗の言ったことを聞いた父さんは、さっそく断食祈願をしている駒やんのところに駆けていって話しました。 「ああ!そうだったか。」そのことに気づいた駒やんは、翌朝早く裏山の岩穴に出かけました。 岩穴に詰めこまれた石は、取り出そうとしてもなかなか取り出すことはできませんでした。 すっかりこまってしまった駒やんは、またまた八幡様にお祈りしました。 すると、青かった空がにわかに曇り、あたりはまっ暗になり、雷が鳴りだし、どしゃぶりになりました。 間もなく、駒やんが祈っている社のあたりからゴォーと音を立てて風が吹きぬけて行ったかと思うと、裏山から里に大きな大きな岩石が音をたててころげおちてきました。 下の方には五・六軒の家がありましたが、不思議にも家と家の間をぬうように岩石はころげおちていきました。 とうとう、惣右衛門どんの家の裏までくるとドカッと居すわってしまいました。 その岩石は、きつねが巣ごもりしていた岩穴が、真っ二つ割れてそのうちの一つがころげおちてきたものでした。 それからというもの、母さんの病気はすっかりよくなりました。 「きっと、神様が駒やんの親孝行をめでて、天狗に岩石をくだかせ、きつねを助け、かあさんの病気をなおしてくれたにちがいない。」 里の人たちは、そううわさをしました。
    (川根のむかし話より:原文のまま)
    この写真が、大和田八幡神社の全景です。訪れる人を巨木が迎え入れてくれます。左手方向には、招魂碑が立てられています。

    この写真は、大和田​八幡神社を正面から見た写真です。駒やんはこの社の前で、断食祈願したのでしょうか。目を閉じると、その姿が浮かんでくるようです。

    笹間渡の子安観音

    • 2015.12.12 Saturday
    • 15:00
    JUGEMテーマ:ぶらり旅
    大井川流域の​民話・伝説・むかし話 目次へ
    この子安観音は、笹間渡の六地蔵と一緒にお祭りされています。 安産・子授け・子育てなどを祈願する民間信仰である子安信仰が、今でも受け継がれています。 これがお堂の写真です。白い袋はお産の前の祈願の時の供えるもので、袋の下側が開いている状態です。 これは、無事に子供が生まれますようにという願いから、袋の下を開けてあるのです。 赤い袋は無事にお産が終わった時に供えるもので、袋の下側が閉めてあります。 これは、無事に子供が生まれた事で、出口を閉めてあるのです。 この供えてある袋は、母体(狭義では子宮)を意味しているのだと思います。 供えられている袋はまだ新しいものもあり、子安信仰が受け継がれている証拠として、捉える事が出来ると思います。

    *笹間渡の六地蔵と大きな関係を持つ項目なので、伝説・民話のカテゴリーに分類しました。

    笹間渡の六地蔵

    • 2015.12.12 Saturday
    • 14:40
    JUGEMテーマ:ぶらり旅
    大井川流域の民話・伝説・むかし話 目次へ
    むかし、むかし、笹間渡に「ねぎし」と呼ばれる名主の家がありました。 村人たちは、この「ねぎし」を大家として、たいへん頼りにしておりました。 ところが、どうしたことか、この大家では、子ども生まれても少し育つとわけのわからない病気になって、 次から次へとこの世を去っていきました。そこで大家はもちろんのこと、 しんせきや隣近所の人たちも死んだ子どもたちのことをふびんに思って、なんとか供養の方はないものかと相談しました。 その頃、この村から出た石源和尚は、興嶽寺におられて名僧知識としてたいそうな評判になっておりました。 「どうじゃろうかな。興嶽寺の石源和尚さまに死んだ子どもたちの供養をたのんでみては・・・。」 「うん、それがよかろう。」 さっそく、名主の次郎左衛門は興嶽寺のある小笠郡横地に足を運びました。 石源和尚さまは、次郎左衛門の話を聞いてじっと考えた末、言いました。 「うーむ、悲しいことじゃ。しかし、いくらなげいても子どもたちは浮かばれない。子どもたちの供養は一つ、 それは、四角な石に六地蔵を彫ってまつることじゃ。」と次郎左衛門に教えてくれました。 家に帰った次郎左衛門は、石源和尚さまから教えられたとおりの六地蔵を作りました。 六地蔵には、子供たちが大好きだったおだんごを供えてやりました。 ある日のこと、村の南方から出た火は、またたく間に村の大半を焼きつくし、大家さんも、宝珠寺も一瞬のうちに灰になってしまいました。 火事さわぎで、誰がかつぎ出したものか六地蔵は、宝珠寺の観音さまと一緒に助け出され、火の粉をさけるために茶畑のすみに埋められました。 村では大火事のあとしまつのどさくさで、観音さまも地蔵さまも、すっかり忘れ去られて長い年月が流れました。 土の中に埋められた六地蔵は、何とかして外に出たいものだと思いましたが、どうにもなりません。 毎日シクシク泣いてばかりいました。これを見ていた観音さまは、 「どうか、六地蔵の願いが叶えられますように・・・。」 「南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛。」と、お経をとなえてくださいました。 あるひのこと、村の百姓が宝珠寺の 焼けあと近くの茶畑で仕事をしていると、土の中から悲しそうな子どもの泣き声とお経が聞こえてきます。 百姓は、不思議なこともあるものだと、大急ぎで家に帰り近所の人に話しました。 「それは一大事じゃ。」 「きっと、火事の時から見えなくなった六地蔵と観音さまにちがいない。」 「掘ってみよう。」 ということになり、村人はくわを持って畑に出かけました。たしかに子どもの泣き声とお経の声が聞こえてきます。 さっそく地面を掘ってみると、観音さまと六地蔵が、土にまみれて姿をあらわしました。 「おお、もったいないことじゃ、こんなお姿になって。」 「ほんとうにお気の毒ことじゃった。」 と、ていねいに水で洗って寺跡にまつりました。 それからというもの、村人は、観音さまと六地蔵を大切に供養したので、村の子どもたちは、病気することもなく、 すくすくと育つようになりました。 今でも、子安観音、子育て観音として、村人からたいへん信仰されています。
    (川根のむかし話より:原文のまま)


    この六地蔵は、大井川鐡道本線・川根温泉笹間渡駅から徒歩で5分位の所にあります。 駅を出て右手に進み、道の駅・川根温泉の前にある細い道を山側に入った公民館の裏手に入ればすぐに見つけられます。 石仏が3体ほど並んでいます。向かって右側にある祠に六地蔵は祀られています。

    正面から見た六地蔵です。優しいお顔をしています。

    右側少し斜めから六地蔵を見てみました。向かって右側にも、優しいお顔のお地蔵様が2体彫られています。写真にはありませんが、勿論左側にも2体のお地蔵様が彫られています。

    観音様が「​南無阿弥陀佛」をとなえたという事で、この地域は、以前は浄土宗だったのではないかとないかと推測されます。

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