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    笹間渡発電所跡(国道473号線より)

    • 2015.12.11 Friday
    • 10:14
    JUGEMテーマ:ぶらり旅
    この発電所跡は、陸路で行くには中々難しい所にあります。 最寄りの駅は、大井川鐵道本線の川根温泉笹間渡駅という事になりますが、 陸路でのアクセスが大変な為、対岸から見る事にすれば、地名駅が良いでしょう。 ここまでは、約1・5kmです。 地名駅からは、県道77号線・国道473号線を家山方面に戻り、昭和橋鵜山大橋を共に越えて少し進めば大井川の対岸にこの発電所を見る事が出来ます。 発電所跡の周りには茶畑があり、管理されているようなので、陸路でのアクセスは可能と思います。 地元の人に聞いたところ、お茶の機械や肥料は対岸からロープを渡して運んでいるとの事でした。 恐らく収穫したお茶もその方法で運んでいると推測されます。 この発電所跡の歴史は、 昭和6年に東海紙料(旧大倉財閥に属した製紙会社で、現在の東海パルプの前身)の発電所として、運用が開始されました。昭和36年に、川口発電所の建設のため、赤松発電所と交換し廃止されました。地名の発電所も同じ様な経緯で廃止となっています。 認可最大出力:4030kw(後に5000kw)。笹間川から取水し大井川へ放水していました。 さて、対岸から見た笹間渡発電所は、茶畑の中に取り残された歴史遺産という感じで存在しています。 殆どはがれてしまっている壁の赤い塗料が、廃止になってからの年月を感じさせます。

    建物を拡大してみると、鉄枠がはまっているようですが、ガラスは殆ど割れているようです。 陸路の聞き取り調査をして、十分に計画を立てて、この発電所跡に訪れたいと思っています。

    地名発電所跡

    • 2015.11.25 Wednesday
    • 04:27
    JUGEMテーマ:ぶらり旅
    この発電所跡は、大井川鐡道本線の地名駅から500mほどで、徒歩で5分位の所にあります。 以前は、建物が残っていたのですが、老朽化の為に解体されました。 東海紙料(旧大倉財閥に属した製紙会社で、現在の東海パルプの前身)の発電所として、 明治43年(1910年)に運用が開始されました。運用開始当時の認可最大出力は2250kwと 日英水電(株)小山発電所の1400KWよりも出力が高かった発電所でした。 昭和6年に一時閉鎖となりましたが、再開されました(認可最大出力1000kw)。 川口発電所の建設の為に、赤松発電所と交換し、昭和36年(1961年)3月31日(中部電力所有)まで運転されましたが、 廃止されました。 この写真は、大井川から地名発電所へ水を送るための隧道跡(左側)です。2つあるのですが、右側はかなり土砂に埋まり、 遺構が見難くなっています。

    この写真は、解体された地名発電所跡です。砕かれた赤レンガが敷き詰められた形で存在しています。
    在りし日の地名発電所(1)
    在りし日の地名発電所(2)
    在りし日の地名発電所の写真は、水力ドットコムからの転載許諾をいただいております。

    小山発電所跡

    • 2015.11.20 Friday
    • 08:33
    日英水電(株)小山発電所跡は大井川鐵道・井川線の川根小山駅から歩いて10分位の所にこの小山発電所跡はあります。 駅からは一本道で集落方面に歩いていくと集落の切れ目の右に案内看板があります。
    大井川水系電力発祥の地
    日英水電(株)小山発電所跡 ここは、明治43年(1910年)につくられた出力1400KWの発電所跡です。 当時日英水電(株)がここに上川根村の大きく湾曲した付け根部分(通称・牛ノ頸[ギャーノクビ]) に水路トンネルを掘り25mの落差を得て大井川水系に始めて発電所を建設しました。 この発生電力は遠く島田・相良・浜松方面へも送電されこの地域は大正2年頃から電灯の恩恵落差をに浴しました。 以降昭和11年(1936年)約10km下流に大井川発電所(出力68,200KW)がつくられるとともに 26年間の発電の重責を全うし廃止となりました。なお、ダム水路発電所としては、中部5県下で最初の発電所でありました。
    平成4年2月 (中部電力の案内看板より)

    これが小山発電所跡の全景です。廃止から長い年月が過ぎているにもかかわらず、綺麗な形で残っています。

    25mの落差からこの地点に水は流れていたと思われます。

    その水はこの部分を通過し、大きな力をもってその先の発電部分に到達し、発電していたと思われます。明治の時代のこの地にこれだけの発電施設が造られ、26年もの間、実稼働していた事実に驚きを隠せません。

    車で来る場合には、小山の吊橋の直ぐ近くなので、同じような駐車の仕方で良いと思います。 写真は小山地区対岸の吊橋近くにある案内看板です。

    旧牧之原トンネル

    • 2015.11.10 Tuesday
    • 10:50
    JUGEMテーマ:ぶらり旅
    この廃トンネルは、大井川鐡道本線金谷駅からJR金谷駅方面に歩き、月ぎめの有料駐車場の入口を入っていきます。 その駐車場の奥に、このトンネルはあります。 東海道本線は東海道に沿って建設されましたが、 当時の技術では日坂宿を経由するルートは不可能でした。 その事から、現在の牧之原市や御前崎市の、「相良」・「浜岡」を経由するルートを考えましたが、 この二つの町から反対運動が起きました。 それを受けてか、金谷と菊川から誘致運動が起こりました。 結果的に現在の場所に牧之原トンネルが作られることになりました 東海道本線は、当初この廃トンネルで開通しました 後に輸送量増強→複線化という図式が出来上がり、その時にこの左側にもう一つトンネルを作りました。 その後、老朽化が問題となり さらにもう一つ左側(南側)にトンネルを掘る工事が進められました。 その後トンネルは整備され、古かった右側(北側)のこのトンネルは廃トンネルとなりました。 今では土など出入口は埋められ、草が生えています。かなり重厚な石組みのトンネルで、内部は煤けたレンガ造りになっています。 この煤は、かつてSLが走っていた時代のものでしょうか?

    廃トンネルと現在のトンネル。当然安全性は現在のトンネルの方が高い事は言うまでもありませんが、廃トンネルには廃トンネルなりの趣があると思うのは私だけでしょうか?

    河村家住宅

    • 2015.11.04 Wednesday
    • 13:15
    JUGEMテーマ:ぶらり旅
    大井川鐡道本線・五和駅から西の方に6キロほど行った所に河村家住宅はあります(島田市大代1882番地の1)。 村家は代々大代地区の名主をつとめ、幕府より苗字帯刀を許され、御林守(おはやしもり)の役職として幕府直轄の御林を管理していました。 河村家住宅は江戸時代後期の寛政5(1793)年に建てられたもので、間口約9間(16,8m)、奥行約7間(12,2m)の茅葺寄棟造ですが、現在は茅の保護のため屋根をトタンで覆っています。 奥座敷の天井は天井板を奥側から張り合わせて、合わせ目がすべて表を向くようしており、襲撃を受けた際に矢が合わせ目に刺さり、 奥まで届かないように工夫されていると言われています。 河村家住宅を正面です。立派で風格のある建物です。

    正面の建具も、細工の細かなもので、趣がある作りです。

    大井川川越し場跡

    • 2015.11.04 Wednesday
    • 12:48
    JUGEMテーマ:ぶらり旅
    大井川鐡道の新金谷駅を出てちょっと歩くとT字の交差点に出るので、そこを右に曲がりしばらく歩いた所にあります。 新金谷駅から徒歩で10分位の所です。金谷宿川越し場跡という看板が立っていて、当時の様子が簡単に説明されています。 敷地は、水神公園として石碑や伏見稲荷大明神の祠などがあります。

    また、タイル画で、当時の川越しの様子が描かれています。

    平成十四年十一月十日水 神公園に建立された、「日かずふる 旅のあわれは 大井川 わたらぬ水も 深き 色かな」と石碑に彫られた 和歌は、常葉大学の日比野教授が東関紀行(鎌倉時代 前期の紀行文)から選出されたもので、 石碑の裏にも 紀行文が彫り込んであり、 二軒家あたりから東町の方 向を見て、広大な大井川に感動して詠まれたとされています。

    大井川川越し場跡から少し歩くと大井川の土手に出る事が出来ます。金谷側から島田方面を眺めた風景です。 目をつぶると、古の川越しの風景が浮かんできます(個人差があり、浮かばない人もいます)。

    日本左衛門の首塚

    • 2015.11.04 Wednesday
    • 12:26
    JUGEMテーマ:ぶらり旅
    日本左衛門の首塚 享保4年(1719年) - 延享4年3月11日(1747年4月20日))は、江戸時代中期の大盗賊。本名は浜島 庄兵衛。 尾張藩の七里役の子として生まれる。若い頃から放蕩を繰り返し、やがて200名ほどの盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、 東海道沿いの諸国を荒らしまわったとされています。 その容貌については、175cmほどの当時としては長身の精悍な美丈夫で、鼻筋が通って色白で、顔に5cmほどもある切り傷があり、常に首を右に傾ける癖があったとも伝えられています。 遠州浜松在ではないかという説もあります。歌舞伎の白波五人男のモデルになった事でも有名な盗賊です。 現在に残る日本左衛門の史跡として、東京都墨田区・徳之山稲荷神社に日本左衛門首洗い井戸の碑があります。 遠州見附・見性寺には墓があり、遠州金谷宿・宅円庵には首塚があり、今回紹介するのが、この首塚です。。 首塚には斬首の後に晒された首を日本左衛門の愛人が盗み出し、 宅円庵で弔ったと言う言い伝えがあります。 この写真が、首塚です。塚の両脇には真新しい、しきみが供えられていました。

    首塚の脇にはその旨が記された看板を見る事が出来ます。

    宅円庵の境内には、北向地蔵尊という石仏も祀られています。

    宅円庵の案内看板。ちょっと不気味な雲が出てきたので、雲に露出を合わせ看板はUNDERに撮影してみました。
     日本左衛門辞世の句 「押し取りの、思い羽がかさなりて、身に青縄のかかる悲しさ」
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